目に飛び込んできたのは、血にまみれた黒い羽。
理由は無かった。ただ、怖かった。
私はそこから逃げた。彼女がどれほど苦しんだか、彼女がどれほど傷つくかなんて、考えもせずに。
☆
「ネム、クラモリは?」
ゲストルームにやって来たレキが言った。
「え? クラモリがどうしたの?」
「うん。さっきから見当たらなくて。もう晩ご飯なのに……」
1時間、2時間。それでも帰ってくる気配は無い。
「……とりあえず、先、食べない? どこかで食べてるかも知れないし」
「うん……」
作っておいた料理は冷めていて美味しくなかった。
結局、その日、クラモリは帰ってこなかった。
次の日も。その次の日も。レキも私もクラモリを探した。オールドホームの中から市街地、町外れ。だが、クラモリはいなかった。クラモリを見たという人もいなかった。
「連盟に……訊いた方がいいんじゃない?」
「あんな連中……あてにならないじゃない」
レキは、灰羽連盟の人たちをひどく嫌っていた。私にはその考えはよく分からなかったが、多分、その羽の色と無関係ではないのだと思う。
レキの羽は、黒い斑だった。今は薬で目立たなくしているが、生まれたときからそうだった。私はそんな羽を恐れ、レキを避けていた時期もあった。
「とりあえず……今日はもう寝ようよ」
「うん……」
レキはひどくうなだれていた。
「体……壊すわよ」
「うん……」
「じゃぁね……おやすみ」
「おやすみ」
私は廊下に出て扉を閉めた。レキの泣く声を聞くのが嫌だったので、すぐにその場を離れた。
☆
それから1週間ほど後。私はその日も街へと出かけていた。クラモリを探しに。
街の中にクラモリがいるとは、もう思っていなかった。ただ、手がかりでもあれば──そんな気持ちで、街のめぼしい所を尋ねて歩いていた。
「いや、ここ最近灰羽は見てねえなぁ」
「そうですか……。ありがとうございます」
私は失意とともに時計屋を出る。その時、突然、肩を叩かれた。
「ねぇ、灰羽さん」
「はい?」
そこにいたのは、一人の女性だった。年は20歳ほどだろうか。思い切り短くしたブラウンの髪と、どこか子供っぽい目つきが印象的だ。新しいスーツがばっちり似合っている、素敵な女性だった。
「あたし、そこの図書館で司書やってるスミカって言うんだけど。あなた、灰羽でしょ? クラモリって灰羽、知らないかな?」
「クラモリを知ってるんですか!?」
私は思わず彼女の二の腕を思いっきりつかんでいた。
「いたた、痛いよ」
「ぁ、ご、ごめんなさい」
つい感情的になってしまう。だがそんなことは気にしていないようで、彼女は話を続けた。
「えっとね、そのクラモリって灰羽さんが、うちの本を借りてて、貸出期限が過ぎちゃってるのよね。1週間ほど。もしかしたら、何か知ってるかな、と思って」
「クラモリは……行方不明なんです……」
「えっ?」
「1週間ぐらい前から……いなくなって……」
「ほんとう? それ? 自警団には話したの?」
「いえ……まだ……」
「うーん。とりあえず、立ち話もなんだし、図書館のほうに来ない?」
彼女に促されて、図書館へと入る。初めて入ったけど、図書館の中は、外見からの予想通り古くさい感じがした。薄暗い照明のせいもあり、気軽に入れるという雰囲気ではない。
「ごめんね。古くさい職場で」
案内された部屋は、応接室のようだった。
「いえ。オールドホームのほうがもっと古めかしいですから……」
「あぁ、そうか。灰羽って古い所にしか住めないんだっけ?」
「正確には、人の使い終わったところ、ですけど」
「ふーん。大変だね」
「いえ……慣れてますし。それより……」
「あぁ、そうだね。その、クラモリさんって人、いなくなったって、どういうこと?」
「わからないんです。その日の朝までは普通に話とかしてたのに……」
「どこかに行くとか言ってなかったの?」
「ちょっと出かけてくる、とは言ってたんですけど」
「そのまま失踪か……」
「………………………………」
改めて状況を整理しているうちに、嫌な考えが浮かんでくる。もしかして、もうクラモリはこの街にいないんじゃないか、と。
「もしかして……壁を越えた、ってやつじゃない?」
「壁を!?」
壁。
この街に住む者にとって「壁」と言えば、町の周囲を囲んでる大壁のことだ。いつ、誰が作ったのか。なんのためにあるのか。壁の向こうはどうなっているのか。誰も知らない。一ついえるのは、壁には強固な力が宿っているということ。壁を登ったり、壊そうとした者には罰が下ると言う。特に灰羽は、壁のそばに近づくことさえ禁じられていた。
「無理です!」
私は反射的に叫んだ。
「だいたい、なんで壁を越えなきゃならないんですか……?」
「落ち着いて。私も、昔、ここの本で読んだだけなんだから」
「本?」
「ええ。灰羽が壁を越える、って。たしかそう書いてあった」
「その本は!?」
「えっと……それが……」
急に、スミカさんの口調が渋る。
「スミカさん?」
「いや、その……どの本か忘れちゃって」
はぁ〜。
思わずため息をついた私を誰が責められよう。
「ま、探しておくわよ」
「本当ですか?」
「ええ。こう見えても司書ですから。ただ、ちょっと時間かかるかもしれないけど」
「構いません。お願いします!」
「そんな改まらなくてもいいわよ。あ、そうそう。よかったら、クラモリさんの借りていった本、探して持ってきてくれない?」
「ええ。分かりました」
やっと見つかった、ほんの少しの手がかり。藁をもつかむ思いだった。
オールドホームに帰って、すぐにレキに図書館であった事を話した。やっと見つけた手がかり。ただ、「壁を越える」ということは黙っていた。まだ確証の取れないことを言ってレキを不安がらせるのは良くないと思ったから。
「それで、スミカさんって、司書の人が、いろいろ調べてくれるって……」
「そう……」
「レキ……大丈夫? ちゃんと寝てる?」
「ん……あぁ。大丈夫。ネムほどじゃないけど、睡眠は取ってるよ」
少しだけ笑いながらレキは答えた。
(そういえば、レキの笑顔を見るのも久しぶりかもしれない)
その夜は、久しぶりによく眠れた。
☆
次の日。私はクラモリの部屋を訪れた。スミカさんに言われていた本を探すために。部屋の中はクラモリらしく綺麗に整頓されてあった。ただ、誰も来ないためにうっすらと埃が積もっている。そのことがひどく悲しく感じられた。
本棚には一冊だけ、図書館のラベルが貼ってある本があった。たぶんこれだろう。私はそれを取り出し、表紙を見た。
「とうのうえのまじょ、か……」
覚えている。それは、クラモリが子供たちに読み聞かせていた本だった。子供たちは、クラモリの読む本が大好きだった。
「クラモリ……どこに行ったの?」
私は本を抱きしめたが、本が話すはずも無く。ただ古い本のにおいがするだけだった。
図書館は相変わらず薄暗く、その薄暗いカウンターにスミカさんがいた。
「ああ、いらっしゃい、ネムさん」
「ネム、でいいですよ」
「そう? じゃ、あたしのことも、スミカ、って呼んでね」
「え、でも……」
「いいのいいの。で、本、あった?」
「あ、はい。これだと思うんですけど」
そう言って、私はクラモリの部屋で見つけた本をスミカに手渡した。
「あぁ。これこれ。ありがとうね」
「いえ……。それより、灰羽の本って、ありましたか?」
「ああ、それがまだ見つからないのよ。ごめんね」
「そうですか……」
「4、5日したらまた来てみてよ。多分それぐらいには見つかると思うから」
「はい……」
4、5日と言われたにもかかわらず、私は毎日図書館に行っていた。本がたくさんある場所が珍しかったというのもあって、手にとってみて読み出したら止まらなくなる事もあった。それに、スミカさんと話すのは楽しかった。
「いつか……この街を出てみたいな」
「えっ?」
「この壁の外にさ。どんな世界があるのか、知りたくない?」
「う〜ん。それは……」
知りたいとは思うけど、それだけでこの街を出たいとも思わなかった。
「ま、それでさ、いろいろ街の外から来た本をここなら読めるじゃない」
「だから司書に?」
「まあね」
「不純な動機ですね」
「ひどいな〜。ある意味すごく純粋だと思うんだけど」
そう言って二人で笑った。
それから4日後。
「そうそう。それらしい事書いた本、見つかったわよ」
「それらしい事って……灰羽のことですか?」
「うん」
スミカさんが持ってきたのは、1冊の古い本だった。かなり傷んでいる。背表紙なんか今にも崩れそうだ。
「ここ、栞が挟んであるでしょ。読んでみて」
「うん……」
ページを開こうとして……指を離す。
「どうしたの?」
「……怖いんです。ここに書いてある事が、良くない事だとしたら……」
「大丈夫よ。私も読んだんだから。私を信じて」
「うん……」
もう一度、本に指を掛け、私は、ゆっくりとページを開いた。
☆
図書館からの帰り道。
私の心は複雑だった。
巣立ち。祝福。壁を越える。
本に書かれていた事は、今のクラモリの状況に寸分違わなかった。
そう。本に書いてあった事が本当なら、私たちはそれを祝福しなくちゃいけない。クラモリは確かに良き灰羽だったのだし。
それでも。クラモリがいなくなって寂しいという気持ちはぬぐえそうも無い。もっとも、そう言ったら、スミカさんは
「でも祝福されるのなら少しはいいんじゃない。人間なんて死んだらそれまでよ」
と言っていたが。
死んだのではないのなら、いずれ会えるかもしれない。
そう考えると、少し心が軽くなった。いや、そう考えないと心が押しつぶされそうだった。
オールドホームにたどり着き、名札をひっくり返す。いつもの事。だが、そこからはクラモリの名札が消えていた。
「やっぱり……もう……」
門をくぐり中庭に出ると、レキが空をぼんやりと眺めていた。
「どうしたの? こんな所で……」
「うん……」
レキを促して部屋に戻る。私は二人分のお茶を入れた。春が近いとはいえ、まだ外でじっとしているのは寒い。
二人で黙ってお茶を飲む。一息ついたところで、私は口を開いた。
「ねぇ……。連盟に言って、誰か、子供たちの世話をしてくれる人を探したいんだけど……」
「必要ない。ここにはクラモリがいるんだから」
レキは……まだ認められないのだろうか。クラモリがいなくなった事を。
「レキ……あのね、クラモリは多分もう……行ってしまったの」
レキは無言で私を睨み付けた。
「図書館で調べてもらったの…………。灰羽はね、時期が来ると巣立ちの日を迎え、壁を越えるんだって……。」
「調べてもらったって……前に言っていた、スミカさんって人?」
「う、うん……」
「ふうん……仲、いいんだ?」
そう言って、レキは席を立とうとした。これ以上話を聞きたくないという風で。
「レキ? 聞いて。巣立ちの日は良いことなんだって。祝福のあった灰羽が」
その時、レキの左腕が空を切った。
殴られる、そう思って目を閉じる。だが手はテーブルの上のティーカップを弾き、ティーカップは床に落ちて砕けた。
「クラモリがいなくなった事がいい事のわけ無いじゃない!!」
そう叫ぶと、レキはゲストルームから逃げるように走り出た。
「レキ!!」
ネムは何とかその一言だけを絞り出したが、その声はレキには届かず。
そして、レキはオールドホームを出た。
☆
私は、何がしたかったんだろう。意識の片隅でそう思う。
レキがオールドホームを飛び出して数日間、何をしたのかよく覚えていない。ご飯を食べたとか子供の面倒を見てたいうのは何となく分かる。ただ、それが、例えば何時ごろだったとか、そういった事は全く覚えていなかった。
クラモリを喪った。それは悲しい事だけど、乗り越えなくてはいけないことだった。だが、レキはそれを認めず、ネムの元を離れた。
言わなければ、レキは自分の側にいてくれただろうか。何度と無く繰り返す自責の念。
ゆっくり目を閉じる。浮かんでくるのは、あの時のレキの顔。
『クラモリがいなくなった事がいい事のわけ無いじゃない!!』
眠ろう。
眠れば、何も考えずに済む……。
そして、起きた頃には悪い夢も醒めているだろう。
心を深みへ導く。どこまでも深く。繭の中にいたときのように。
自分の羽に、小さな黒い染みが浮かんでいる事にネムは気づかなかった。
☆
「ネム! ネムってば! ちょっと!!」
誰かが私を呼んでいる。
「ネム! ねぇ、どうしたのよ、起きて!!」
うるさい。もう少し寝かせて。
「ネム! 起きなさい!」
仕方なく眼を開ける。誰かがいるのは分かるけど、視点が合わない。目を少しこすると、ようやく視界がはっきりしてきた。
「……スミカ?」
「スミカ? じゃないわよ。どうしたのよ、いったい?」
「どうした、って……?」
「ここの所、図書館に顔見せなかったからさ。どうしたのかと思って来てみたら、なんか部屋は荒れ放題だし、ネムはテーブルで苦しそうな顔で寝てるし」
「あ……」
どうやら椅子に座ったまま眠っていたらしい。部屋の隅には割れたティーカップがそのままになっていた。それが、私の心を現実に引き戻す。
「スミカ……」
「なに? きゃっ、ちょ、ちょっと!」
「スミカぁ、レキが、レキが……」
私は、泣きながら、無我夢中でスミカに抱き着いていた。
スミカは優しく私の背中を撫でてくれた。スミカの手は暖かかった。
スミカの作ってくれた暖かなスープを飲んでいたとき。
「あれ? 下に誰かいるわよ。……灰羽だ」
「レキ!?」
ゲストルームの窓から外を覗く。だが、そこにいたのはレキではなく、知らない灰羽の男の子だった。たぶん、廃工場の灰羽だろう。
1階に降りると、その子は駆け寄ってきた。
「おい、レキって灰羽、ここのだろ?」
「ええ、そうだけど……レキ、廃工場にいるの?」
「いる、というか、いた、というか……。とにかく! そのレキとうちのヒョコが、西の森のほうで、壁を乗り越えようとしたんだよ!!」
「「壁を!?」」
私とスミカの声が重なる。
「そんで、ヒョコが大怪我して! レキも自警団に捕まってる。俺は一応こっちにも知らせておけ、って言われてきただけだから……」
「そう……ありがとう」
「じゃぁな!」
そう言って、その子は来た道を引き返して行った。
「壁を越えるなんて……無理よ。あなたたち灰羽は、近づくだけでも危険なんでしょ?」
「たぶん……レキはクラモリに会いに行こうとしたんだと思う」
「ネム……」
「私が、クラモリは壁を越えた、なんて言ったから……レキは……」
また涙が流れるのを止められなかった。
「落ち着いて、ネム。あなたのせいじゃないわ」
「でもっ!!」
やはり伝えるべきではなかったのか。後悔の念が私を責める。
「あなたは正しい事を伝えた。それだけよ。現に、あなたはそれを知っても壁を越えようとは思わなかったんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「そうね……一緒に来てくれる?」
突然、スミカの話が飛んだ。
「どこへ?」
「風の丘よ」
☆
風の丘は、オールドホームを出て、街へ出る道の途中にある。その名の通り、いつも強い風が吹いていて、その風を利用した風力発電機の大きな風車がいくつも立っている。離れてみる分には良い眺めだけど、近くだと風車の風切り音がすごくて、話すのも苦労する、そんな場所だ。
スミカは、その丘の頂あたりまできて、地面に腰を落とした。私もその隣に座る。
「ネ………に………」
スミカが何か話しかけてきた、らしい。でもその声は聞こえなかった。
私が、何を言われたか分からない、という顔をしていると、今度は耳元に顔を寄せて、言った。
「ネムはレキにどうしてほしいの?」
「えっ?」
「口に出して言ってごらんなさい。言いたいことを溜め込んでいるのは体に毒よ。大丈夫。ここなら誰にも聞こえないから」
「私は……私は……」
私は。レキに。
「許して……ごめんなさい……レキ……」
初めて出会ったレキを、私は拒絶した。まだこの世界に来たばかりで、何も知らないで不安だったはずのレキを。レキはあの時の私の顔を、ずっと覚えているに違いない。
私が、ここを飛び出していくときのレキの顔を忘れられないように。
「全部私の身勝手のせいなのは分かってるけど……許してくれなんて言えないのかもしれないけど……許してほしい……。私はレキをずっと好きでいるから。レキのことを見守るから。だから……お願い……そばにいて」
スミカがそっと私の肩を抱いた。涙が風に飛ばされる。この言葉も風に飛ばされて、レキの元に届けばいいのに。そう思った。
「羽……綺麗な、灰色だね」
スミカは、ただ一言、そう言った。
- fin -