仕事を終えた伊織とやよいは、電車を降り、地下鉄の改札口を抜けた。事務所に一番近い出口を目指す。細い通路を上って、地上に出た二人が見たのは、空から降り注ぐ、無数の雫だった。
「雨……だね」
「雨ね」
大粒の雨は、地面や道を走る車、立ち並ぶ店やビル、そして道行く人々を勢いよく濡らしていた。
伊織は、手にしたバッグの中から、小さな折り畳み傘を取り出す。隣に並んだやよいは、それをただ見つめていた。
「……どうしたのよ、やよい?」
「えーっと、実は……傘、持ってなくて」
伊織は、あきれた顔で、やよいを見て言った。
「あんたねえ。今朝テレビで、今日は午後、にわか雨が降るって言ってたでしょ?」
降水確率は80%。これで持っていない方がおかしいだろう。実際、道を歩いている人たちは、皆、傘を差している。
「それが……朝、忙しくて、テレビ見る暇なくって」
ここから765プロの入っているビルまで徒歩10分ほど。雨は勢いよく降り続いていて、傘無しには決して出歩きたくない状況だった。
伊織は、小さくため息をつくと、持っていた傘を開いた。
「しょうがないわね。ほら、入りなさいよ」
傘を差し、やよいを手招きする。
「わ、ありがとう。伊織ちゃん」
「当然でしょ。雨の中歩かせて、風邪ひかれても困るんだからっ」
やよいが傘の中に入ったのを見て、伊織はゆっくりと歩き出した。左側に伊織。右側にやよい。それぞれの右手と左手で、一本の傘を持つ。
雨の降り注ぐ通りを、二人は歩いていく。普段は騒がしい街は、雨音にかき消されたかのように、不思議と耳に入ってこなかった。そんな雰囲気に気圧されたかのように、二人も無言のまま足を進めていた。
赤信号が灯る横断歩道の前で立ち止まったとき、伊織は、やよいの右肩が雨に濡れていることに気づいた。
「やよい、もっとこっち寄りなさいよ。濡れてるじゃない」
「あ、うん……」
二人の腕と腕が触れ合う。折り畳み傘は、二人を雨から守るには小さすぎて、伊織の左肩にも冷たい雫が落ちる。お気に入りの服が濡れてしまうのは少し残念だったけど、やよいが濡れずに済むのなら、それでもいいと思った。
「えへへっ。なんか、いーよね、こういうの」
やよいが照れたように笑う。
「……そうね」
伊織も、微笑でそれに応えた。
雨は降り続いていたけど、もう冷たさは感じなかった。
☆
二人が765プロの入っているビルに着く頃には、雨はだいぶ小雨になっていた。
エントランスで傘についた水滴を払い落とすと、エレベータに乗って、3階にあるオフィスへ向かう。
「ただいま戻りましたー!」
「戻りましたー」
入り口のドアを開け、戻ってきたことを報告する。だが、オフィスはがらんとしていた。もともと人手の少ない765プロでは、社長からプロデューサー、はては事務員まで、仕事に忙殺され、外出していることが多い。そろそろ、もう少し広いフロアに移転して、人も増やしたほうがいいと伊織は常々思っていた。
「あ、いおりん、やよいっち、おかえりー」
社長やプロデューサーの代わりに返事をしたのは、双海姉妹だった。
双子の姉妹は、皆のスケジュールが書かれたホワイトボードの前にいた。おおかた、事務所に来たはいいものの、誰もいないので、予定を見ていたのだろう。
伊織たちがホワイトボードのほうに近づくと、不意に、姉妹が顔を見合わせて、ニヤニヤと笑みを浮かべた。これは──なにか、悪企みをしている顔だ。
「な、なによ」
伊織が警戒しながら姉妹に問いかけると、二人は、ニヤニヤ笑いを伊織とやよいに向けて、言った。
「んっふっふ〜」
「見たよ〜。みましたよ〜」
「……何を見たって言うのよ」
二人は、ぴったりと息のあった動作でホワイトボードを指差す。そして、
「いおりんと」
「やよいっちで」
「「アイアイ傘ー→!!」」
これまた絶妙のタイミングではやし立てた。
「な、な、な」
伊織は、言葉を詰まらせながら、二人が指したホワイトボードを見た。そこには、デカデカと、傘を模した記号の下に、「いおりん」「やよいっち」と二人の名前が並べられて書かれていた。傘の上には、ご丁寧に、赤いマーカーでハートマークまで書かれている。
「やーい、いおりん、顔、真っ赤だー」
「真っ赤真っ赤ー!」
伊織は、ゆっくりと二人のほうを振り向いた。こめかみのあたりがピクピクしているのが自分でも分かる。
「あ、あんたたちねぇぇぇぇぇぇ」
「わー、いおりんが怒った!」
「どうしよう、真美?」
「よーし……逃げよっ、亜美!」
「OK!」
伊織は二人を追いかけようとしたが、脱兎のごとく駆け出した二人は、あっというまにフロアの入り口から外に出て行ってしまった。
「まったく……あのクソガキどもったら!」
間違っても外では聞かせられない悪態を吐くと、伊織は、もう一人の当事者であるはずのやよいの方へ振り向いた。
そのやよいはというと。
ぼ〜っとした表情で、落書きのされたホワイトボードを見つめていた。心なしか、顔が赤く見えるのは伊織の気のせいだろうか。
「……何、ぼーっとしてるのよ」
「え、あ、その、えへへ……」
やよいは、照れたように、胸の前で両手をもじもじと動かした。
「あ、そうだ、これ、消しておくね。いつまでもこんなんじゃ迷惑だよね!」
やよいは、ホワイトボードに備え付けのイレーサーを手に取ろうとした。が、伊織がそれをさえぎる。
「そんなの、私がやっておくわよ。それより、服、濡れたままでしょ? 風邪ひかないうちに、ジャージか何かに着替えてきなさいよ」
「あ、うん……。ありがと、伊織ちゃん」
「べ、別にたいしたこと無いわよ」
やよいが更衣室に入ったのを見届けると、伊織は、もう一度あたりを見回した。あの双子も含めて、フロアには誰もいない。
伊織は、バッグから携帯電話を取り出すと、カメラのレンズをホワイトボードのほうに向けた。
「そ、そうよ。これはイタズラの証拠を取っておくだけなんだから」
誰に向けたのでもない言葉をつむぎながら、伊織は携帯カメラのシャッターボタンを押した。カシャッ、という音が、無人のフロアに吸い込まれていく。
「さて、ちゃんと消さなきゃ……」
イレーサーを手にとって、イタズラ書きだけを、そっと消していく。スケジュールの書いてあるところに被っている部分は、あとで本人に書き直してもらおう。
半分ほど消し終えた時、更衣室のドアが、中から勢いよく開けられた。
「伊織ちゃん、伊織ちゃん! 来て来て!」
「なによ、大声出して」
「いいからいいから!」
ジャージに着替えたやよいが、勢いよく手招きしている。仕方ないといった様子で、伊織はイレーサーを置くと、更衣室の方に向かった。
「ほら、見て、伊織ちゃん」
更衣室には、明るい陽差しが差し込んでいた。どうやら雨は完全に上がったらしい。
「わざわざブラインド上げたの?」
更衣室といっても、ただの小部屋にロッカーを入れて、更衣室として使用している、というだけの部屋だ。窓にはブラインドをつけて、外からは見えないようになっている。
伊織は、窓の外を見ているやよいの隣に並んだ。
「わぁ……」
窓の外には、大きな虹。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。7つの色がはっきりと見える。こんなに綺麗な虹を見るのは初めてかもしれないと伊織は思った。
「綺麗ね……」
「うん……」
不意に、伊織は自分の右手が、温かいものに包まれたのを感じた。伊織も、そっと握られた手を握り返す。
伊織は、視線だけを動かして、やよいの横顔を見た。そこにあるのは、いつもと変わらない笑顔。握られた手だけではない、心まで温かくなるような笑顔。
いつまでも大好きなその笑顔の隣にいれますように。伊織は、空にかかる虹にそっと願った。
- Fin -